大工塾ネットワーク「杢人の会」
コラム

毎回、担当の大工が日頃考えている疑問や悩みを本音で綴っていきます。

大工の本音

大工 今枝:今枝 一
今枝 一

09:ウソ
28:年の瀬に思ったこと
50:ブリコラージュ再再考

■ブリコラージュ再再考

このコラムの前回執筆者より、田舎者の野蛮人呼ばわりされつつ、次もブリコラージュねたで書けと指示をいただいた。そこで今月もブリコラージュな展開で書きます。ブリコラージュとブリコルール、エンジニアリングが何かということについては、先月先々月のコラムをご参照ください。

ブリコルールなお施主と設計屋との、ブリコラージュな新築工事(前回のHP表紙写真参照)が一段落しかけたころ、中央アルプスのとある山小屋の改築工事に伴う仮設工事の依頼を受けた。その小屋は大学時代、毎夏を小屋番として過ごした場所。二十年ほどご無沙汰だったが、この二、三年は夏に子供達と再訪するようになっていた。行けば、小屋の空気がずっとここに居たかのように馴染む。そんな場所に、大工として関わることとなった。
山小屋は大正時代に建てられた石室を残し解体する。工事期間中、石室は職人たちの寝起きする場となり、そこを雨風しのぎ生活できる空間にすることが今回の我々の仕事。元請けから与えられた条件はただ一つ、「上に有る物で何とかしておくれ・・・」。
標高2700m、物質的には閉じた条件。そこで職人達が暮らしてゆくために何が出来るのか、下界では十分な判断がつかないけれど、身体は勝手に思考を開始する。小屋に有る物有りそうな物、どこの何を引っぺがし、どこに張り付け・・・とりあえず釘袋とウヰスキーをザックに詰め込み人生二回目のヘリに乗り込む。

「野蛮人と農民と田舎者の仕事は完全無欠である」という趣旨のバルザックの言葉を、丹呉さんは先月の最後に引用し、「地球に住む人間の仕事として完全無欠である」と読み解いていた。この意味が少し身近になった気がしたのは、内田樹さんが「野生の思考(神話的思考)」を「身体的思考」と言い換えた文章を目にしたときだ。

『身体を使うというのは、畢竟するところ、有限数の「ありもの」をどう「使い回し」して、新しいパフォーマンスを達成するか、という「ブリコラージュ問題」です。ぼくたちは長く武道をやってきたわけですから、身体機能を上げるということは何か外部的な要素を「付加する」のではなく、「すでに持っている身体要素」の「これまでそんな用途で使ったことのない使い方」を探り当てるということだということは身に染みてわかっているはずです。』(Tokyo Fighting Kids Returnより引用)

内田さんは、自身の思弁の暴走と前置きしているのだけれど、それをさらに丹呉さんのとも合わせ勝手に解釈。
ブリコラージュな完全無欠な仕事とは、外部的な要素を「付加しない仕事」、他の系に迷惑をかけない仕事や生き方。たぶんそういった仕事は自身の身体にも負荷は少ない。仕事が複雑かつ拡大したときにそのリスクを担保できるのは、身体意識や身体機能の向上のみ。(無論ここで言う身体とは、個人のみに帰するのでは無く、様々な関係性の中に有る様々な系、例えば大工塾や杢人の会といったネットワークも含みたい。)つまり山小屋のことを下界で寸断の躊躇もなくイメージできたのは、小屋の記憶と後から大工として獲得した身体要素が、猛烈な勢いで会話を開始したからだということに気づく。

エンジニアリングを否定する気はない(現にその恩恵を大いに受けている)。しかしそこに未来を託す気にはなれない。基本的にエンジニアリングは、不足な物を系の外から得て、生じたリスクは外部に排出する、ぼくにはそう見える。身体性から乖離し、当事者意識が薄れたた技術や生き方は怖い。久良氏の言うとおり原発はその筆頭。不幸な戦の多くもそこに巣くう。今、自らをエコと呼ばせている技術や施策の多くも、当事者性を放棄した側の言い訳にしか聞こえない。

現実には、大工は木材という同じ物が一つとして無いブリコラージュな材料を手にしながら、エンジニアリング的なシステムへ採算や時間を落とし込まなければいけないことが多い。これがけっこう苦しい。
大工仕事の着地点が、エンジニアリング的な場だけという日が来ないことを祈る。そんな生き方のためにこの生業を選んだ訳では無いし、何より有限の素材から生まれるだろう、無限の可能性に蓋をすることになるから。


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実り

2013.10.7


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